殺されて生きている
021:壊れたこころ
路地裏の舗装はまばらだ。手が回らないのではなく意図的に残されているとも言えた。切り飛ばされた指や肉片は土の上で腐って土へ還っていく。吐瀉物や体液すら呑み込む深い虚は折々に口を開けて思わぬ深みをさらした。腐乱で脆くなったそれは簡単に靴裏に潰れて踏み散らかされ蔦のように広がっては雨やほとばしる水流で流される。藤堂はふらりふらりとそういった泥濘ばかりを行き来する。前髪を上げてあらわな額や頬に傷はない。それでも、と藤堂は心中でひとりごちた。この体には無数の傷が眠っている。戦闘中であったために摘出できなかった破片や質の悪さゆえに体内で飛散した弾丸や。真っ当な治療を受けられる頃合いにはすでに痛みに慣れ藤堂の肉はその欠片を包み呑む。同化したと思う頃に不意に内側から抉る痛みや発熱を伴った。己に受けた傷と怒りを体は痛みとともにゆるやかに呑んでいく。耐え切れなければ自ら切開する。医療の腕は素人に毛が生えた程度だ。痕が消えない。だから藤堂の体の傷のいくらかは自分でつけたものなのだと藤堂だけが知っている。
肩や頬を涙のように濡らすばかりだった雫はいつしか外套の裾から雫が垂れるほど激しく降っている。濡れた髪がベタベタと額へ垂れてくるのを乱暴にかき上げ、けれどその手は雨垂れを拭いもしない。無意識的に腰元を探ってから自嘲した。愛刀はねぐらへおいてきた。鳶色の硬い髪は黒みを帯びて肌へ張り付く。外套の前留の紐は装飾のように垂れその先端までを雨滴に晒す。足首や踝上まで固める硬い靴は引きずるように歩みを進める。靴裏は何かを踏みにじって歩いていた。藤堂は微温い雫にふやけた思考の隅で手持ちの獲物を確認する。折りたたみ式のナイフが一本。それだけだ。拳銃さえ携えないそれは場所を考えれば自滅的でさえある。それでもいい。こうした弛みで死ぬなら自分はその程度。求められ敵に抗ってこそと信じた道は藤堂の前から不意に消えている。見えていたその道の先に栗色のくせ毛に碧色の双眸をした少年を踏みつけるのだと識って藤堂の歩みが滞った。脚が凝った。躊躇した。刹那に何もかもが消えて藤堂はひたすら襲い来る刃や銃弾を避けて反撃する。それだけ。ふるう刃が引き裂く皮膚と肉とが少年のものではないと安堵しながら進む先に少年の身体があるのかと思うとまた足が止まる。不毛な繰り返しでしかなかった。
幼い頃から叩き込んだ武道の精神は摩滅し藤堂は疲労した。そして時間は残酷に藤堂の前を閉ざした。行き詰まりに揺蕩う藤堂は不意に蘇る亡者の攻撃を避けて反撃して。進めなかった。
「あ、めが」
髪を濡らして染みこむ雨垂れは耳裏やうなじを撫でて外套の中まで濡らした。路地裏に真っ当な階級は存在しない。子供の労働者も大人の浮浪もありふれる。通路の隅へ転がっているのが人間なのか肉の塊なのかさえ判然としない。誰もがそれを当然のように享受する。
「見つけ、た!」
ぐんと外套ごと肘を引かれて藤堂は緩慢に振り向いた。線を引いたように揃う前髪が乱れていた。濡れて房になり、払ったそのままに張り付いたりしている。丸い眼鏡と端正な顔立ち。幼いばかりの顔を引き締めるのは眉上から頬までを貫く傷跡。眼球には影響がなかったのか見えづらいとかそういう話はなかったように思う。
「…しょうご」
朝比奈が泣きたいような顔をした。嬉しいですけど。どうしてこういう時じゃないと呼んでもらえないのかな、オレの名前。くすみのない頬は薔薇色に上気して傷口は肉色に色みを変える。くっきりとした二重と大振りな双眸は年若い朝比奈をさらに幼く見せる。雨降りの中で傘も持っていない。自分を捨て置いて藤堂は諫めるようにそんなことを思った。
「鏡志朗さん、どこか行っちゃわないよね?」
「――…」
藤堂先生、オレを置いて行っちゃうの
少年。刃の煌めきは真紅に染まって。血飛沫。刺さっていたものを抜くだけで壁や扉はおろか天井にまで吹き上がった。亜麻色の道着と紺袴。膝を抱いて。触れた幼く丸みのある腕や肘は死体のように冷えきって。戦慄。紅玉の唇は泣き声を薄皮一枚でこらえていた。
とうどうせんせい。おれ、おれ。
続く言葉が聞きたくなかった。藤堂は振り切るように踵を返して耳をふさぐ。膝を抱いて丸まってしまいたかった。
「鏡志朗さん?」
ばち、と弾かれるようにして藤堂は朝比奈の手を払った。濡れ髪が先端を翻らせて雨垂れとは違う角度へ雫を散らす。朝比奈は驚いたように緑柱石の双眸を瞬かせる。すぐにその目が眇められた。目を眇めても白目が判る。人の目だと藤堂は無為に思った。
「傘くらい持って出てください。後でオレが怒られるんだから。傘ぐらい持って迎えに行けって。よく考えたら理不尽だよね」
眼鏡の硝子さえも濡らして朝比奈がむっと頬をふくらませた。藤堂の喉がゴクリと鳴った。
「きょうしろうさん?」
手が伸びる。朝比奈の頤を固定するとそのまま唇を重ねた。路地裏では同性同士の抱擁や交渉は異変に当たらない。男娼を買う男も素人をうなずかせる手腕もこの地域ではありふれる。
「しょう、ご。…抱いて、くれ」
こわして。刹那に朝比奈の緑柱石がぎらりと突き刺さる。オレの壊し方知ってるの? 後で嫌だって言ってもやめてあげられないよ。構わない。本当だよ。あそこにはもう、戻れなくなる。朝比奈が曖昧にしたあそこを藤堂は知りながら目を背けた。
「私はもう、私であることを赦せない」
「だからオレに壊して欲しいの? そういうのってさ、虫がよすぎるっていうんじゃない」
朝比奈の言葉がナイフのように藤堂を切り裂いて。その痛みだけで藤堂は泣けると思った。
ぎぢ、と結合部が不気味な軋みを帯びる。開いた脚の間を朝比奈の刀身が犯し、その嫋やかな白い手が藤堂の抜き身を撫で回した。締め付けてくる。鏡志朗さんさぁ、禁欲し過ぎじゃない。溜めると後々で厄介になるよ。脚を閉じないで。朝比奈の言葉に藤堂の体がびくんと跳ねる。突き当りの泥濘の褥で抱かれながら藤堂は歓喜に震えた。指先が何本もの溝をえぐって泥を掘る。泥だらけの手で朝比奈の肩や頬に触れても朝比奈は怒らない。
「…ぁ、ふ……ン、そ、こ……ゃ、あ、あ…」
「嫌だって言ったって聞かないよ。鏡志朗さんが抱いてくれって言ったんだから。オレも無理を通すよ」
外套も衣服も剥ぎ取られている。雨に泥濘む土の上で藤堂は抱かれた。自分で言い出したことであれば制止さえも危うい。朝比奈もわざとそこへ嵩にかかる。鏡志朗さんが抱いて欲しいって言ったんだよ。つけつけと臆面もなく放たれる刃が切り裂く。藤堂は恍惚として朝比奈の幼い顔がゆがむのを見た。
桜色の爪先が忍ぶように抜き身を撫でては袋や会陰にまで伸びる。手管は巧みで藤堂の感じる場所ばかり掘り起こす。思わぬ虚を探り当てられて狼狽するのを朝比奈は冷笑した。痛いのが好きなの? 駆動部などの関節を外すように抑えながら腰はズブズブと藤堂を犯す。朝比奈の刀身は藤堂の胎内で確実に膨張していた。刀身は少しずつでも確実に藤堂を犯す。女相手でも具合が悪ければ難儀する。朝比奈は確実に藤堂の体を盛り上げては追い立てた。
「あつ、い。鏡志朗さん、あなたの熱で、オレはおかしくなりそうだ」
もうなってるかも。体内で刀身が蠢いた。内壁を抉るように突き上げられて藤堂の体がブルッと震える。膝を捕らえるまでもなく開いた脚の間へ朝比奈は指を滑らせて笑う。犯されて感じるんだね。
「藤堂先生」
「とうどうせんせい」
藤堂は息を呑んだ。朝比奈の高い声はまだ幼い。幼い声で、呼ばれた記憶。栗色のくせっ毛。おおぶりな碧色の眼差しは鶸色に澄む。藤堂先生、オレのお嫁さんになってください。薔薇色の頬を染めて他愛もないことを言う。長じれば恥じるばかりの記憶だろう。藤堂先生。
たすけ、て
あなたはいつだってオレの父さんにかけあってくれてオレを守ってくれて、だから
父さんの血に濡れてしまったオレを たすけて
血まみれの幼い繊手が藤堂の裾を、掴む――
「す、ざく」
ひょう、と空を切る高音が耳を打つ。瞬間、痛烈な平手が藤堂の頬に炸裂した。
「オレに抱いてって言っておいて他の男? スザクってあのちびでしょう。今忙しいんじゃないんですか? 急に呼び戻されて部屋から出る間もないって聞いてますけど」
伏せられるべきことだった。藤堂は喉を鳴らして唾液を呑んだ。彼の名誉と将来のためと銘を打ち、ただひたすらに汚い大人の事情は煌めきばかりを磨き立てる。見ないふりで追いやられた負い目や汚辱がひどく責める。気づいているだろう、何故、識っているだろう、何故。後々に責められると判っていてそれでも手を出すことさえかなわない。あの時あなたがこうしてくれたら。彼が長じてそんな恨み言を投げつけてくれたら私はいくらか救われる。
朝比奈が藤堂の首を掴んだ。鳶色の髪を掴み引っ張るようにして藤堂の耳朶で喚く。藤堂はうるさげに目を眇めた。灰蒼がいっぱいに広がって獣の目になる。潤みも瞬きさえもしない獣は無為に音ばかりを聞く。
「鏡志朗さん、解らないけどひとつ判ることはある。優しさってのはね、残酷なだけなんだよ」
痛いだろう辛いだろうって言ったって、それが移動するでもない解消するでもない。お前と同じ気持だよってだから許してほしいっていうただの自己満足だ。
「…だから。自己満足でしょ? それでもいいから」
あなたの痛みをオレに分けてよ
藤堂の胎内が収斂した。締め付けに朝比奈の刀身が膨らむ。腹の底を圧されながら藤堂はうっとりと笑う。澱や涎を吐いて汚れた頤もそのままに朝比奈の唇が重なった。ぐぶ、と刀身は更に深くへ押し入ってくる。朝比奈の刀身は何度も抜き差しを繰り返す。その度に濡れた音がして藤堂の脚の間は爛熟する。爪先まで丸めてビクビク痙攣する藤堂の膕を抑える朝比奈は高揚していた。薔薇色の頬や澄んだ唇は紅のように色づいた。たまらない、ぞくぞくする。藤堂は顔を歪めて嬌声を堪えようとする。それを嗤うようにして朝比奈は藤堂の弱い場所ばかりを突き上げる。
「――ぁ、あ! …ン、ん…っぁう…!」
よじって逃げる藤堂の上体を朝比奈は意地悪く抑えこむ。
さらされる藤堂の裸身には無数の傷が走っている。銃創から裂傷、蚯蚓腫れを何度も繰り返したように爛れた傷さえ珍しくない。朝比奈はその一つ一つへ唇を寄せた。鏡志朗さん。この傷の一つ一つが鏡志朗さんを作ってる。他人をけしかけるような真似しておいて言うことじゃないんだけどさ。
「鏡志朗さん、どうしてそんな」
盥をひっくり返したような豪雨が二人を濡らす。強かに打ち付ける雨音はいっそうるさいほどで、強まる雨足に逃げる人々の足音とあいまって二人の耳は一時的に麻痺した。濡れそぼつ藤堂の髪を朝比奈が梳いた。わらう。文字通り淫雨だった。いつまでもつながった二人をしとどに濡らした。藤堂の指が泥をかくように溝をえぐり、手の内で泥の塊が潰れた。朝比奈の桜唇が蠢く。淫靡なのだと、思った。
《了》